暮らしのコラム一覧

鳴門の文化景観を未来につなぐということ

鳴門市で、大麻山に風力発電を建設する計画が進んでいると耳にしました。 再生可能エネルギーは時代の流れであり、 地球環境のためにも重要な取り組みであることは言うまでもありません。 しかし一方で、私はふと思いました。
大麻比古神社の杜を見上げるこの山に、巨大な風車が立つ景色が本当にふさわしいのだろうか。
大麻比古神社は、阿波の国の総鎮守。 霊山寺は四国霊場八十八ヶ所の第一札所。 この地は、信仰と祈りに支えられてきた阿波の入口です。 ここは、ただの山ではなく 土地の記憶と精神文化が息づく場所です。 経済や効率だけでは測れない価値が、確かに存在します。 それは「風景」ではなく、 人の心のよりどころとしての景観です。 もちろん、開発そのものを否定するつもりはありません。 ただ、文化の象徴の上に巨大構造物を置くという選択は、 慎重に考える必要があるのではないでしょうか。 科学が追いつかない領域で、 低周波や景観の変化により生活や健康への不安を感じる方もいます。 「エビデンスがない=不安は無視してよい」ではないと思います。 守るべきものと、未来のために進めるべきこと。 その両立を探るのが、いまの私たちの役目ではないでしょうか。 鳴門の文化景観は、先人が長い時間をかけて築き、 私たちに託してくれたかけがえのない財産です。 未来の子どもたちが、同じ景色を見上げられるように。 地域に根ざした一人として、 静かに、しかし確かな思いをここに記します。
秋晴れのもと、庭造りの続き。少しづつ

庭造りは、暮らしを育てる時間

少しずつ芝を敷き、庭が緑に染まっていくプロセスを楽しんでいます。 仕事の合間に、自然の中で手を動かす時間はとても贅沢なものですね。 今回敷いたのは「3種混合芝」。 それぞれ特性が違い、季節によって表情が変わります。 小さな芝生にも、多様性と調和があるのだと思うと、なんだか人生にも通じるようです。 ホームセンターで買える芝も試してみながら、 無理に一気に仕上げるのではなく、少しずつ育っていく過程を楽しむ庭づくり。 自然のリズムに合わせて暮らすと、 日々の仕事や生活にも、自然と余白や柔らかさが生まれてくる気がします。 今日もまた、ひとつ緑が増えました。 これからどんな庭になるのか、楽しみです。

庭造りの時間と、隣地の雑草から気づいたこと

自宅の庭づくりを少しずつ進めています。 芝を3分の1ほど敷き、ソヨギを1本。まだ未完成ですが、緑が増えていくのを見ると気持ちが整います。

その一方で、隣の空き地は雑草が多く、風で種が飛んでくることも…。 こうした「隣地の雑草問題」は意外と多く、 「どう伝えれば角が立たないか」 「持ち主が遠方で連絡できない」 など、暮らしの相談としてよく耳にします。

土地の所有者には管理責任がありますが、まずは気持ちよく話ができる関係づくりが大切ですね。

庭を整えることは、自分の暮らしと周囲との関係を整えることでもあると感じています。 ゆっくり育てる楽しみを感じながら、季節とともに進めていきたいと思います。

 

 公園のトイレの張り紙に思う — 貧しさとモラルのはざまで(2025.11.02)

 週末の早朝、公園をランニングしていると、澄んだ潮風とともに静かな時間が流れていました。立ち寄ったトイレに、一枚の張り紙が目に留まりました。『トイレットペーパーの盗難が増えています。見つけ次第警察に通報します。』短い文面でしたが、そこに込められた管理者の苦悩と、市民生活の現実を感じずにはいられませんでした。

 公共施設の備品を持ち帰る――それは、昔からある些細な出来事のようにも見えます。しかし、よく考えてみれば、これは明確な「窃盗行為」であり、刑法第235条に定められた窃盗罪に該当します。『他人の財物を窃取した者は、10年以下の懲役または50万円以下の罰金に処する。』という条文がそれです。たとえ備品が紙一巻であっても、公共の財産である以上、持ち去ることは犯罪行為なのです。  しかし、ここで責めたいのは個人ではありません。問題の根っこには、社会の貧しさ、そして人の心の余裕のなさがあります。物価高が続くなか、生活の苦しさを訴える声が増え、孤立や孤独を感じる人も少なくありません。「少しくらいなら」と手を伸ばすその行為の裏に、心の飢えや疲弊が隠れているのかもしれません。本来、公共施設とは地域の共有財産であり、みんなで守り合う場のはずです。けれどもその意識が薄れ、個の欲求が優先される社会になりつつあります。  こうした行為を防ぐためには、単に監視や罰則を強めるだけではなく、「なぜそうせざるを得ない人が増えているのか」という社会の構造にも目を向ける必要があります。貧困や孤立を放置すれば、やがてモラルの低下や地域コミュニティの崩壊につながっていくでしょう。

 公園のトイレに貼られた一枚の張り紙は、単なる注意書きではなく、今の日本社会の鏡のようにも思えます。誰もが少しずつ疲れ、余裕をなくし、他人の痛みに鈍感になりつつある――。そんな時代だからこそ、私たちはもう一度、公共とは何か、信頼とは何かを考え直す必要があります。  他人のものを大切に扱うこと。困っている人をそっと支えること。それは、どんな法律にも勝る『人としての良心』の証ではないでしょうか。潮風の中、再びランニングを再開しながら、私はその張り紙の意味を噛みしめていました。

 横領事件と家族の責任(2025.10.31)

今朝の徳島新聞に、元県高P連会長が約6,000万円を横領したとして逮捕されたという記事がありました。 子どもさんやご家族のことを思うと、胸が痛みます。学校生活など、いろいろな影響が心配になりますね。
このような場合、横領という不法行為による返済義務(損害賠償責任)は、本人のみが負うもので、 配偶者や子どもにその責任が及ぶことはありません。 ただし、もし横領した資金が家族の口座などに振り込まれていた場合には、 「不当利得」として返還義務を問われる可能性があります。
報道によれば、使途の多くは旅行や交際費にあてられたとのこと。 刑事事件として服役した場合でも、損害賠償義務がなくなるわけではありません。 罪を償うことと、被害者に対する弁済義務は別の話なのです。
法的な側面だけでなく、家族の心情を思うと人の弱さについて考えさせられます。 秋晴れの庭で草木をいじりながら、そんなことを思いました。

徳島市の障害児デイサービス突然の休業が示す制度の課題(R7.12.15)

徳島市で障害児デイサービス事業所が突然休業し、利用していた子どもや保護者に大きな混乱が生じています。障害児デイサービスは、子どもの療育の場であると同時に、家族の生活を支える重要な役割を担っています。その機能が急に失われることは、利用者の生活に深刻な影響を及ぼします。 行政書士の立場から見ると、今回の事案は一事業所の問題にとどまらず、運営体制や行政の指導監督、休業時の説明や調整の在り方など、制度全体の課題を示しています。やむを得ない事情があったとしても、事前の説明や関係機関との連携があれば、混乱は抑えられた可能性があります。今後は、利用者保護を最優先とした仕組みづくりが求められます。

知っておきたい、自転車の酒気帯び運転 (2025.12.25)

年末年始は忘年会や新年会など、飲酒の機会が増える時期です。その帰り道、「自転車だから大丈夫」と思っていませんか。実は、自転車であっても酒気帯び運転は道路交通法違反となり、厳しく取り締まられています。 最近では、徳島県内でも自転車の酒気帯び運転をした人が、自動車の運転免許を停止される事例が報じられました。自転車での違反であっても、免許を持っていれば「運転者として危険」と判断され、車の免許に行政処分が及ぶことがあります。 たとえ免許を持っていない場合でも、酒気帯び運転自体が許されるわけではなく、罰金などの刑事責任を問われる可能性があります。 「少しだけだから」「近くだから」という油断が、大きな不利益につながることもあります。飲酒した日は自転車にも乗らず、公共交通機関や代行、徒歩を選ぶ——それが自分と周囲の安全を守る一番の近道です。

消費税ゼロと国債発行は本当に「将来負担にならない」のか(2025.12.29)

近年、消費税を廃止し、国債を積極的に発行しても将来の国民負担にはならない、という主張を耳にすることが増えた。日本は自国通貨である円を発行できる国であり、理屈の上では国債を返せなくなる心配は少ない、という考え方に基づくものだ。 確かに、不況時に政府が財政出動を行い、景気を下支えすることは重要である。しかし、「負担が全くない」と言い切ることには慎重であるべきだろう。国債発行が増え続ければ、税としてではなく、物価上昇や円安といった形で私たちの生活に影響が及ぶ可能性がある。 実際、食料やエネルギー価格の上昇は、家計だけでなく医療や介護など社会を支える現場にも重くのしかかる。税金が増えなくても、生活コストが上がれば、それは実質的な負担と言える。 財政政策は「出せばよい」「減らせばよい」という単純な話ではない。将来世代に何を残すのか――その視点を忘れず、冷静な議論が求められている。