週末の早朝、公園をランニングしていると、澄んだ潮風とともに静かな時間が流れていました。立ち寄ったトイレに、一枚の張り紙が目に留まりました。『トイレットペーパーの盗難が増えています。見つけ次第警察に通報します。』短い文面でしたが、そこに込められた管理者の苦悩と、市民生活の現実を感じずにはいられませんでした。
公共施設の備品を持ち帰る――それは、昔からある些細な出来事のようにも見えます。しかし、よく考えてみれば、これは明確な「窃盗行為」であり、刑法第235条に定められた窃盗罪に該当します。『他人の財物を窃取した者は、10年以下の懲役または50万円以下の罰金に処する。』という条文がそれです。たとえ備品が紙一巻であっても、公共の財産である以上、持ち去ることは犯罪行為なのです。 しかし、ここで責めたいのは個人ではありません。問題の根っこには、社会の貧しさ、そして人の心の余裕のなさがあります。物価高が続くなか、生活の苦しさを訴える声が増え、孤立や孤独を感じる人も少なくありません。「少しくらいなら」と手を伸ばすその行為の裏に、心の飢えや疲弊が隠れているのかもしれません。本来、公共施設とは地域の共有財産であり、みんなで守り合う場のはずです。けれどもその意識が薄れ、個の欲求が優先される社会になりつつあります。 こうした行為を防ぐためには、単に監視や罰則を強めるだけではなく、「なぜそうせざるを得ない人が増えているのか」という社会の構造にも目を向ける必要があります。貧困や孤立を放置すれば、やがてモラルの低下や地域コミュニティの崩壊につながっていくでしょう。
公園のトイレに貼られた一枚の張り紙は、単なる注意書きではなく、今の日本社会の鏡のようにも思えます。誰もが少しずつ疲れ、余裕をなくし、他人の痛みに鈍感になりつつある――。そんな時代だからこそ、私たちはもう一度、公共とは何か、信頼とは何かを考え直す必要があります。 他人のものを大切に扱うこと。困っている人をそっと支えること。それは、どんな法律にも勝る『人としての良心』の証ではないでしょうか。潮風の中、再びランニングを再開しながら、私はその張り紙の意味を噛みしめていました。
今朝の徳島新聞に、元県高P連会長が約6,000万円を横領したとして逮捕されたという記事がありました。 子どもさんやご家族のことを思うと、胸が痛みます。学校生活など、いろいろな影響が心配になりますね。
このような場合、横領という不法行為による返済義務(損害賠償責任)は、本人のみが負うもので、 配偶者や子どもにその責任が及ぶことはありません。 ただし、もし横領した資金が家族の口座などに振り込まれていた場合には、 「不当利得」として返還義務を問われる可能性があります。
報道によれば、使途の多くは旅行や交際費にあてられたとのこと。 刑事事件として服役した場合でも、損害賠償義務がなくなるわけではありません。 罪を償うことと、被害者に対する弁済義務は別の話なのです。
法的な側面だけでなく、家族の心情を思うと人の弱さについて考えさせられます。 秋晴れの庭で草木をいじりながら、そんなことを思いました。